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たまには長文を

クズの本懐感想

正直ノーマークだった。
ただの萌えアニメでないことは明らかだったが、クズというタイトルも手伝ってどんな作品か想像できなかった。もっと重くて毒々しいイメージだった。
まさかここまでレベルの高い群像劇だとは思ってもみなかった。
これは、数年に一度の傑作である。

(以下ネタバレあり)

 

結論から言って、この作品に「クズ」は一人もいなかった。
皆、各々の状況でもがき苦しみそれでも前に進む。

主人公、安楽岡花火やすらおかはなびは最後まで報われない。
序盤、
興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?
と彼女は言った。毒々しく強烈なセリフだ。
しかしもう一歩踏み込んで考えてみると花火は特進クラスの中でもさらに成績優秀者であり、しかも計算高いようでいて実際は周りの女子よりも相当ピュアな少女である。このセリフは決して意地悪で言ったものではなかった。
これは花火にとって、この時点における誠意ある対応だった。
その後花火は"お兄ちゃん"に対する叶わない恋の寂しさを埋めるように麦と形だけの恋人になる。そのうわべだけの関係が見ているだけもつらかった。
中盤、早苗(えっちゃん)からの好意を知った花火は
知らなかった……人の好意って、こんなに重かったんだ
と気付く。唯一と言ってもよい親友から向けられていた感情が単なる友情ではなかったことに悩み苦しんだ。
終盤、様々な思いを胸に最後は鐘井先生にアタックし、そして玉砕した。
しかしその勇気が彼女を精神的に成長させた。
最終回、同じクラスでありながら名前も知らなかった男子から告白された花火は
ごめんなさい……でも、ありがとう……ございます
と返答する。
花火は昔と違い、人に想いを伝えるのがいかに大変かを知っている――。
17歳の高校二年生である花火の精神的な成長の過程が見事に描かれたと思う。


麦もまた報われない。
かつて茜に惚れ、誰とでも寝る茜の本性を知ってなお嫌いになれない男としての性欲。自分こそが茜を変えられると思ってしまう麦の若さ故の全能感。退廃的だと分かっていながら身体を重ねてしまう情けなさ。それらのギャップに自己嫌悪し、その自己嫌悪にまた自己嫌悪する麦。
「自己嫌悪」をここまで深く描写した作品は記憶にない。


早苗(えっちゃん)。
もしこれが有象無象の安直萌えアニメだったなら、百合だレズだなどと一人で盛り上がっていただろう。しかし本作においてそれはありえない。
高校受験当日に痴漢され精神的に不安定だったころを助けてくれた花火に好意を寄せる彼女。その境遇が重いし、友達関係を途切れさせまいと頑なに本心を隠し続けてきたのに、それでも押し倒してしまうところに彼女の思いの強さが描かれていてこれも見事だった。
彼女もまた失恋から成長した一人である。


基本的に多くを語らない本作において、詳細にその内面を説明されたのが茜だろう。
作中で語られたように、彼女には「自分」がない。あるのは自らを何かの役割に当てはめることでかろうじて得られる自己肯定感と、他人から奪うことで向けられる嫉妬や羨望に価値を見出していることだ。
ただの腹黒ビッチキャラかと思いきや、実は彼女もまた虚しさを抱える人物であるあたり本作は本当に奥が深い。結婚を機に価値観が変わっていく様子もなんとも味わい深かった。


モカ。彼女は分かりやすかった。
昔から好きだった麦を表面的な恋人関係で花火に取られたのは不憫だったが、麦から好意を寄せられていないことも含め割り切って成長する流れは花火の成長のモデルケースのようだった。


さて、本作で最も内面を読み解くのが難しかった人物は鐘井先生ではなかろうか。
(視聴後ネットで感想を漁ってみたが、鐘井先生に対する疑問が多かった。)
花火の"お兄ちゃん"こと鐘井先生は、誰にでも股を開く女だった茜と結婚する。
鐘井先生はなぜ茜と結婚したのか。
表面的には女性との縁がなかった鐘井先生が茜を抱いて即落ちしたように見える。
それはそれで、高齢童貞がソープ嬢に恋をするようなキツさがある。
しかし鐘井先生が茜に惹かれたきっかけははっきりと描かれていた。それは茜にかつての母の面影を見たからだ。
だがここで一つ大きな疑問が生まれる。
いくらなんでも母親の面影を感じただけで結婚を決めるだろうか、まして茜のような尻軽女と。
これに対して納得できる理由を作るには「愛」の知識が必要だろう。
古典ギリシア語において「愛」は4種類あるという。
すなわち、エロス(性愛)、フィリア(隣人愛)、ストルケー(兄弟愛・家族愛)、アガペー(無償の愛)である。
鐘井先生以外のキャラの愛が基本的にエロスであることは間違いないが、鐘井先生の愛はアガペーだったのではないか。アガペーとは「見返りを求めない」愛である。キリスト教では「神の人間に対する愛」を表す。
鐘井先生は茜に対して「元気でいてくれればそれでいい」と語った。これは他のキャラと比べても性欲の欠片もない、ある種不気味な発言である。第一結婚するほど好きな理由になっていない。
しかし鐘井先生の愛がエロスではなくアガペーだったなら筋は通る。彼は最初から見返りを求めていなかった。その他の誰とも違う愛の形に触れた茜はついに価値観が変化する。
序盤は誰がどう見ても善人だったのにストーリーが進むにつれその異質性が浮かび上がってくる、そんなキャラクターだった。

 

1クールという限られた時間で多くのキャラクターの心の機微をこれだけ深く描く群像劇は非常に少ない。
しかも毎回時間配分が上手過ぎる。続きが気になるところでEDのイントロが流れ始め、印象的な台詞と共にEDに突入する展開は咲-saki-みたいだった。

そしてそんな脚本に負けないくらい演出も極めてレベルが高かった。
日本には古くから「引き算の美学」という美意識がある。
余計なものを極限まで削ぎ落としていきそれでも残ったものが美しいという考え方で、禅や茶道にも通ずると言われている。
本作の演出はまさに引き算の美学だった。
花火が自問自答するときに画面が墨で染まっていく演出、黒い背景に文字だけを映すシンプルなカット、要所で光る花びらと枯れ葉のアクセント。
モノローグを多用しながらも全体としては多くを語らない作風だからこそこういった静かな見せ方が印象的だった。対照的に感情が高ぶった時のややくどいくらいの演出はefを彷彿とさせた。

OPもEDも世界観にマッチしていてここにも徹底したこだわりが感じられた。

 

 

女性との接点が全くない人生を送ってきた私にとって、こうやって恋愛に悩み勇気を出して告白し、失敗し、叶わない恋に悩み、それでも前を向くことで精神的に成長する青春群像劇を見せられるとなんとも絶望的な喪失感に襲われる。
26歳となった今、こんな高校生のような淡く儚い恋愛など最早できまい。
もし私にもこういう思春期があったなら人生も違っていたのだろうか。
普段ならアニメを見ても自分の人生と照らし合わせるなんてことはしないのだが、今回はガラにもなくそこまで考えてしまった。というか否応なしに考えさせられた。


感想文がこんなに長くなったのも初めてだし、それだけ考えさせられる作品だった。
ストーリー展開、演出、音楽。全てが調和したまさに芸術作品だった。