第一章を見たのが2017年10月。
第二章を見たのが2019年2月。
そしてこの第三章。ほぼ3年かかって一つの壮大な物語を見終えた。
息をする余裕もないほどの白熱した戦闘シーンの連続をこれでもかと見せつけられると、なるほどこの迫力は「24分プラスOPとEDの30分枠」では成しえない物だと理解できる。
改めて、よくぞ映像化したものだと感心する。ビジュアルノベルゲームという名の「紙芝居」であったFateを名作たらしめる要素は他ならぬ奈須きのこの「文章」だったはずなのに、地の文がアニメーションに置き換わってもなお名作だと思えるのは見事である。
(以下ネタバレあり)
【あらすじ】
慎二が桜に殺されているのを見つけた士郎は、それでもなお桜を選ぶ。一方衛宮邸に現れた黒桜は凛を瀕死に追いやり、イリヤとともに城へ消える。士郎は凜を助けるべく綺礼の元を訪ね、その後目的が一部重なるとして綺礼の運転する車でイリヤを救うべく城へ向かった。イリヤを連れ城を脱出する最中、3人はアサシンとバーサーカーに襲われる。綺礼はアサシンと対峙し、士郎はアーチャーの左腕を開放してバーサーカーを撃退する。
士郎は桜を倒し、かつ桜を救うべくライダーと協力する。士郎・凛・ライダーは柳洞寺に向かった。柳洞寺の地下で待ち構えていたのは黒セイバーであった。黒セイバーは桜の名に従い凛を先に行かせる。山の最深部で桜と対峙した凛は、士郎が投影した宝石剣・ゼルレッチを使い桜を追い詰める。しかし凛は、最後の最後で妹である桜を殺すことはできなかった。
その頃、士郎の
凛を殺してしまったショックで自我を取り戻した桜は、さらに士郎に抱きかかえられ気を失った。士郎は凛と桜を連れて脱出するようライダーに頼んだが、士郎も限界を超えライダーの名前も思い出せなくなっていた。
桜の暴走が止まっても聖杯が止まることはなく、聖杯を一番近くで見守っていたのは綺礼であった。士郎は聖杯の誕生を取る綺礼に肉弾戦の末勝利するも聖杯を止めることはできなかった。最終的に魔法で聖杯を止めたのはイリヤである。こうして聖杯戦争は終結した――。
Fateの原作をプレイしたのはもう10年以上前になるだろうか。HFは士郎生存エンドよりも士郎死亡エンド(桜ノーマルエンド)の方が強く印象に残っているので、これがハッピーエンドとは理解しつつもどこかで後者の方を見たかった自分もいる。
『春になった。』を繰り返して桜がおばあちゃんになっても士郎を待ち続けるEDはノベルゲームでこそ輝くエンディングなのかもしれないが。
綺礼が古いBMWを運転しているのには笑った。そんなシーン原作にはなかったと思うが、確かに教会からイリヤの城まで移動するシーンは必要だろうし、奈須きのこが
不満とまでいいかないものの士郎と綺礼の殴り合いは原作にあったっけ?
士郎はともかく綺礼が死にそうになりながら殴り合いをしているイメージが湧かないし、散々ド派手なバトルアクションを見せつけられたのに最後の最後に肉弾戦とは、クライマックスを飾るにしてはちょっと意外な展開。両方とも「一応」人間だし、法具も魔術もないのでお互いボロボロになるまで殴り合うのはまぁ……って感じもするけれど、やるなら問答が良かった。
救いのない被害者であった桜が少しずつ加害者に変貌していく過程で、どこまでが
大量殺人を犯し、今後も災厄を
これを、我が身を簡単に犠牲にして理想を追い求める狂った主人公の士郎に考えさせる構造が憎いくらいに良い。奈須きのこは天才。
そして綺礼の主張にも一理あるから面白い。「犯罪者の息子は犯罪者か?」という台詞は印象的だった。悪として生まれてこようともまだ生まれておらず、もうすぐ生まれそうな存在を生まれる前に殺すことは果たして正義なのだろうか。
ちなみに私の中では答えは出ていない。
正義とは何か――。どこぞのトロッコ問題じゃないけれど、答えが定まらないテーマを突き付けられたからこそこうして人々の心に残る名作として語り継がれるのだろう。